
| フランソワ・モリス・アドリヤン・マリー・ミッテラン François Maurice Adrien Marie Mitterrand |
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| 任期: | 1981年5月10日 – 1995年5月17日 |
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| 任期: | 1954年6月19日 – 1955年2月23日 |
| 元首: | ルネ・コティ大統領 |
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| 任期: | 1956年1月31日 – 1957年6月12日 |
| 元首: | ルネ・コティ大統領 |
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| 出生: | 1916年10月26日 シャラント県 ジャルナック |
| 死去: | 1996年1月8日(満79歳没) パリ |
| 政党: | 社会党 |
| 配偶: | ダニエル・グーズ |
フランソワ・モリス・アドリヤン・マリー・ミッテラン(François Maurice Adrien Marie Mitterrand, 1916年10月26日 - 1996年1月8日)は、フランスの左派政治家。社会党所属(第一書記)。
フランス第五共和政の第4代共和国大統領を2期14年にわたって務める。
目次 |
1916年、シャラント県ジャルナックに生まれる。王党派であったミッテランは1934年から極右運動に参加、当時ユダヤ人や外国人の排斥を謳っていた反ユダヤ主義のファシスト団体アクション・フランセーズに所属した。
1939年9月、フランスの第二次世界大戦参戦をうけて、軍隊に召集される。その後負傷しドイツ軍の捕虜となるものの、1941年12月に逃走に成功しフランスに帰還。1942年からのフィリップ・ペタンが首班を務める親独政府であるヴィシー政権下で働き、1943年8月16日には、戦前の国家主義活動、ヴィシー政権への積極的な傾倒ぶりが認められ、勲章を授与される。
しかし同年12月には対独レジスタンス運動に参加し、地下運動を始め、ロンドンに逃亡。1944年にはド・ゴールの臨時政府に参加した。1944年10月28日にダニエルと結婚した。
1946年、ニエーヴル県選出の国民議会議員となり、植民地相、国務相、法相などを歴任し、第四共和政期の10年あまりをほぼ閣僚として過ごす。この間、フランスが植民地の独立運動に直面していた1953年には、「ビゼルトからカサブランカまで、北アフリカにおけるフランスの影響力の維持は私にとってあらゆる政治問題の中でも一番の課題である」と表明し、翌1954年にアルジェリア戦争が勃発した際には、国民議会において「アルジェリアの反徒は戦争という最終形態しか見出せないのだ」と発言、反徒を射殺することを命じ、独立運動の鎮圧を図った。
ジャック・マシュ将軍がアルジェの戦いにおいてアルジェリア民族解放戦線 (FLN) メンバーの尋問の際に拷問を組織的に行ったのは、とりわけミッテランの命令をうけたものだとされている。
1965年には、左派統一候補として大統領選挙に挑み、ド・ゴールと対決、結果的には敗れたが、決選投票において1061万9735票 (44.80%) を獲得した。1971年社会党第一書記に選出される。
その後、ド・ゴールの後を継いだジョルジュ・ポンピドゥ大統領の任期半ばの急死をうけて行われた1974年の大統領選挙でも再び決選投票に持ち込み、1297万1604票 (49.19%) を得たものの、1339万6203票(50,81%)を得たヴァレリー・ジスカール・デスタンに僅差で惜敗する。
ジスカールデスタンと再び争った次の1981年の大統領選では1570万8262票 (51.76%) を得て勝利、第五共和政第4代大統領に就任。ピエール・モーロワ内閣を成立させ、有給休暇の拡大、法定労働時間の削減、ラジオおよびテレビの自由化、大学入試の廃止、死刑制度の公式廃止を行うとともに私企業の国有化や社会保障費の拡大をはじめとする社会主義的政策を取った。
しかし、翌1982年には、インフレの進行、失業者の増加に直面したため、賃金を凍結し、公共支出を削減するなど緊縮財政を取り、さらに首相もローラン・ファビウスに替え、自由主義的政策に転回することになる。
1986年の総選挙では社会党が大敗を喫し、右派政治家ジャック・シラクが首相に選出され、保守派内閣が誕生し、第1次コアビタシオン(保革共存)が成立する。しかし、1988年の大統領選挙では54.0%の得票率でシラクを下し、大統領再選を果たした。続く総選挙で社会党が勝利し、ミシェル・ロカールを首相に指名。1991年にはエディット・クレッソンを首相に抜擢し、フランス史上初の女性首相が誕生。1993年の総選挙で再び右派が勝利を収め、エドゥアール・バラデュール内閣が発足し、第2次コアビタシオンが成立した。
なお、1993年から1994年にかけてピエール・ベレゴヴォワ元首相や長年金庫番を勤めていたプログスなど複数の側近が「自殺」したことから、不祥事のもみ消しを意図したミッテランの指示による殺人ではないか、という疑いがマスメディアにおいて高まった。
1995年5月、フランソワ・ミッテラン大統領は2期14年を終え、退任。翌1996年1月8日に前立腺癌のため死去。死亡する二日前に延命治療を拒否し、アンヌ親子が見守る中、パリの自宅で息を引き取った。癌は大統領初当選の1981年より患っており、政権末期には執務が困難な状態まで進行していたことが、近年明らかになっている。
1944年10月28日にレジスタンスの同志であったダニエルと結婚し、三男をもうける。1974年に、30年来の付き合いのあったアンヌ・パンジュとの間に、隠し子・マザリーヌをもうける。葬儀には、自分の棺に最も近い席にマザリーヌとアンヌを座らせることを遺言で指示していた。夫人のダニエルにも、他に愛人がいたことが知られている。
文人政治家で、フランソワ=ルネ・ド・シャトーブリアンに似た文章を書くと評された。近年、フランス最後の「国父」として再評価が盛んになっている。
Tns-Sofresが2005年12月20日、21日にフランスの有権者1000人を対象にミッテランに関する電話調査を行った。ミッテランが実行した政策の中で「偉業」だと思うものを問うたところ(複数回答可)、死刑廃止をあげた人がトップで71%、生活保護費や年金の充実、週39時間労働制の実施などの「社会政策」をあげた人が次いで66%で、マーストリヒト条約の署名をあげた人が3番目に多く41%だった。
同調査でミッテランが大統領を務めた任期14年に対する評価を問うたところ、63%の人が「評価できる」と答え、「評価できない」と答えたのは26%だった。戦後の大統領で最も偉大な人物をあげよという設問では、35%シャルル・ド・ゴールの名を挙げ、ミッテランと回答したのは30%で2位、3位につけたジャック・シラク前大統領の名をあげたのは7%だった。
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